ご報告・離党
11月に入り、民主党に離党願を出しました。
ギリギリまで考えて、でも3年以上悩んでいたので、最後は迷いはありませんでした。
正式受理となったのかどうかが、少しの間わからないままでしたが、その後、党の会議の議事録で私の離党が受理されたということを知り、正式に無所属となったので、いよいよお伝えしようと思ったところ、同時に解散総選挙の風が吹き始め、遂に解散。
非常にセンシティブな状況なので、今、直接皆さんとお話することのできないブログで、離党について書く事を悩み続けましたが、皆さんに私の状況をお伝えする必要がありますので、少し長めではありますが下記に、初めの経緯からお伝えしたいと思います。
この写真は過去の私のHPのものです。ここには当時の想いを記していますが、私は出産・育児までは、区議会議員になりたいと志して活動していたわけではなく、娘と月齢の近い子どもを持つ親同士で話しているうちに、「皆が保育園のことでほとんど毎日のように悩むのはおかしい」、また「港区は待機児童率が23区内でワースト1」だとわかり、「港区は財政が豊かなのに、なぜ待機児童率が23区内でワースト1なの?」「この現状をもっと良い方向へ変えていきたい、そのために港区議会議員を目指そう!」そう思い、党の子育てに関する理念には共感しておりましたので、党の面接を受けるにいたりました。
私が公認を受けようとした当時は、鳩山内閣後の管内閣で、尖閣諸島中国漁船衝突事件もあり、国民の民主党への不信感が高まっている頃。しかも、私自身、初めは「子どもが小さすぎるからやめた方がいい」(政治の仕事はそんなに生半可なものではないからということを言いたかったのだと思いますが)と公認はされず、何よりその言葉に非常にショックを受け、疑問も持ち・・・、「もう無所属で出よう」とも考え始めていた頃、公認の連絡をいただきました。
↑1年以上前に掲載のVERYより。(あの言葉でスイッチが完全にオンになったというか、勇気と覚悟が定まったので、今では感謝していますが。)
少し悩みましたが、「実現させることが大事。もし当選することができたら、仲間が多い方がより目標を達成できる」との思いで、公認を受けることにしました。しかし、その後、東日本大震災。民主党はさらに逆風となって、突入した選挙でした。
当選後、大変な逆風下でも、私の想いに共感し、私を議会に送り出してくださった友達・支援者、投票してくださった方々(たとえお会いできなくても、感謝の気持ちを忘れたことはありません)のために、「待機児童を解消しよう」、「子どもの政策を充実させよう」と必死になって働きました。
港区内での子どもに関する施策は、確実に良い方向に動いているという手応えを感じている一方で、民主党は、お一人お一人は素晴らしい方も多いし、学ばせていただいたことも多いのですが、党に関しましては、期待していた子どもの政策、特に、“子ども手当の崩壊”に関して、ひとつの政策の崩壊ではなく、私にとっては、民主党の哲学、理念の崩壊とさえ感じ、賛同できる点が少なくなり、政策面での不一致も出てきました。そして、港区議会議員になって丸3年後、港区の待機児童の解消に関しては、全議員と行政の力を合わせ、私が当初思い描いていたところまで達成でき、負託を受けた役割をほぼ果たせたと思え、一つの区切りがつきました。
数字が小さいのでわかりにくいかもしれませんが、当選した23年以降、棒グラフで示されている保育園の定員拡大と折れ線グラフの待機児童の推移で、動向がおわかりいただけるかと思います。
港区の待機児童の解消はじめ、実現したい政策を成して行くことに、民主党かどうかということは関係がありませんでしたし、(逆に考えると、だからこそ、離党によって、反感や誤解を与えるリスクを思うと、離党しないままでいた方が良いのかもしれません。)しかし、理念やビジョンや想いがあってこそ動けると思う私にとっては、やっぱりこれ以上、自分が民主党に属す意味、理由を見出すことができず、私の親しい支持者の方々の想いもあり、一区切りがついた今、そして議員としての在り方が見えて来た今、残りの任期、さらに区民のために力を尽くすために、「離党するなら今」と、この決断に至りました。
議員になってから改めて知ったこと、学んだこと、港区内の課題もたくさんあります。今後は、より政策を実現していくため、私を議会に送り出してくださった皆さまのために、残り任期、もっと役に立てるよう、全力で、さらにパワーアップして、さらに子育て政策の充実、また新たな課題に挑戦しつ、区民のために働きます!!
続きます。これからについて~今の想いとこれから成し遂げていきたいことについて~
港区議会議員 やなざわ亜紀