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港区議会議員やなざわ亜紀

「まさか自分が政治家になるなんて思ってもいなかった」

ある日、テレビのニュースを見ていて、「少子化対策とか言っているけれど、私たちが子育てしやすい環境なんて全然つくってくれてないじゃん!」という怒りがわいてきて・・・。それならば、「私が、政治家になろうかな!」と。

港区議会議員やなざわ亜紀

「守りたい、助けたい、喜んでもらいたい。」
−自然が大好き。太陽と空、大地と海、自然の恩恵を十分に受けて育った四国時代。

私は、四国の徳島で生まれました。(阿波踊りで有名な徳島です。)

父・母・弟の4人家族。両親が仕事の時は、田舎の祖父母宅で過ごし、曾おばあちゃんと一緒に早朝から時代劇を見るというのが日課でした。中でも暴れん坊将軍の徳川吉宗は私の憧れ。その影響を受けてかどうか、「誰かを守る、助けたい、誰かに喜ばれたい—」、いつの間にか芽生えていたそんな想いは、特に保育園に行くのを嫌がる弟を姉として守ることから始まっていたように思います。

保育園、小学校、中学校、高校と育っていく過程で、その想いは、家族、周囲の友達、学校全体、地域の人たちと、その対象範囲も自分がやれる範囲もが広がっていきました。
そして、ある日、東南アジアのある貧困国のストリートチルドレンの新聞記事を読んだのですが、“世界にはご飯も食べられない、こんなかわいそうな子がいるんだ。苦しんでいる子どもたちを助けたい”と、私のやる気と、生きる希望の源泉である夢の範囲は世界へと広がりました。

港区議会議員やなざわ亜紀
港区議会議員やなざわ亜紀

大学は、香川大学に進学します。我が家はそれほど裕福ではなかったのと、人を守る法律を学びたかったという理由で、地元に近い国立大学に奨学金制度を利用して通いました。大学時代は、市の観光大使を務めたこともあります。学生時代に市政や市長と関わらせていただいたことで、身近である地方自治、また首長の重要性を肌で感じ取ったように思います。

好奇心旺盛で勉強も好きな方でしたが、アルバイトでお金を貯め、休日は四国の海を船で走り回り、青春18切符や夜行バス、飛行機など、様々な交通手段を利用して、東京、関西、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア・・・、国内外問わずいろいろな地へ出かけました。机上だけの情報ではなく、外に出向くことで、知識を深められるだけでなく、新たな発見や、既知の情報とは全く異なったことがわかることすらあります。何よりそこにはパッションや感動があります。こういった経験から、物事に関しては画一的な方面からではなく、できるだけ多くの人の意見を聞き、自分の目や耳、肌で直に感じ、考えることを大切にしています。

幸せの輪を広げたい。
—誰かに喜んでもらって、その人を見た人たちも笑顔になる、そんな幸せの輪を広げたいと願って働いていた資生堂時代。

卒業後は資生堂に入社します。美しくなりたいという願いを叶え、人を幸せにできる仕事だと思いましたし、グローバル企業なので、自分の夢である貧困下の子どもたちを助けられるようなことができるかもしれない、そういう想いがあったからです。私には、「企業は社会の公器」、その考え方が強くあるように思います。

資生堂では、私は、新潟・群馬・埼玉・東京・神奈川・兵庫、大阪と、多くの百貨店を担当しましたが、そこで働くビューティーコンサルタントの皆さんと共に、「お客さまを美しくして、お客さまが嬉しくなって、それを見た周りの人も幸せになっていく、そんな幸せの輪をどんどん広げていくんだ。」という想いを共有し、お客さま、社員の満足と、売上の向上を追求し、夢中で働きました。

その中で、自分のチームとして延べ200人ぐらいの女性社員と関わってきましたが、結婚・出産・育児を理由に退職したり、退職しないでも働き続けることに悩む女性が多いこと、それに伴う人材確保やメンタル等、チームマネージメントの難しさ、また、辞めた女性社員が数年後に「やっぱり働き続けていたら良かった」と後悔している場面にも多く遭遇したりなどし、どうすれば女性がもっとイキイキ働けるかと、働き方、キャリア形成などについて常々考える非常に重要な経験を積みました。

港区議会議員やなざわ亜紀

また、当時、資生堂全体は、国内売上は毎年落ち、将来的にもそれは変わらず海外展開を拡大していくというビジョンを打ち出しておりました。会社の経営として、会社の維持と拡大のためには正しいと思いながらも、会社人としてではなく、一人の日本人として、こういった状況を、とても恐ろしく不安に感じました。

「日本は少子化により圧倒的に人口が減っていく。マーケットとしての魅力は下がり多くの企業が海外に出て行くんじゃないか。人口も企業も減り、国内経済はどんどん縮小する。そうなると外交は?社会保障は?私が、小さい頃から「守りたい、助けたい、喜ばれたい」そう思ってきた人、みんなは?

そんな想いを抱えながらも、私は小さい頃からの「貧困下の子どもたちを助けたい」という夢を実現していくため、また、自分自身のポリシーである「自らの目で確かめる」ためにカンボジアを訪れます。しかし現地で実感したことは、確かにカンボジアには貧しさはあるものの、先進国と言われる世界の国々から支援されている状態であることや、何より、目がキラキラしている子どもたちで溢れている元気いっぱいの村々。そんな様子を目の当たりにして私は、「あぁ、私が、今やれること、そして今やるべきこと、やりたいこと、それはまずは、自分が育ってきた国、日本の、日本人のために動くことだ。」そう思うようになったのです。

港区議会議員やなざわ亜紀

そしてそのためには、やはり人口問題をどうにしかしないといけない、子どもを産み育てながら、女性が働き続けることができる社会でなくてはならない、そう強く確信し、帰国後は、自分のチームだけでもそういうマネージメントをしていきたい、そう思って夢中で働きました。

あなたのことは私が守る。

そうした中、私自身には、心から守りたい存在が現れます。それは結婚して5年後に産まれた私の娘です。

子どもが生まれた日に私は誓いました。「あなたのことは私が守る」と。

子どもは本当に愛おしい。しかし、核家族であり周囲に助けを得られにくい東京での育児は想像以上に大変でヘトヘトにもなる毎日でもありました。しかもそう思っているのは自分だけではありません。周りのママ友たちもみんな同じように感じていたのです。

港区議会議員やなざわ亜紀

私は変えたい。あなたのために。
一人でも多くの、一つでも多くの笑顔や幸せを増やしたい。

「子育てって大変!」「これでは少子化になるのも無理は無い!」

特に私たちの周りで深刻だったのは、保育園に入れるか入れないかわからない待機児童問題。

「女性が働きながら子どもを産み育てやすい環境を作っていかなければならないのに!」これは私が資生堂での社会人生活で痛感した想いもさらに重なります。

しかも調べてみると、港区は豊かな自治体であるにも関わらず、当時、待機児童率は23区内ワースト1でした。

「え、どうして?私たち子育て世代の声って政治に反映されていないの!?」

「これは根本的な問題ではないのか。港区から変えていきたい。」

また、一方で、全く別の気づきもありました。

赤ちゃんがいると、まちですれ違う人が笑顔で話しかけてくれたり、これまで知らなかった人たちと繋がっていくということです。私はそのことに喜びや幸せ、未来への希望を感じました。

まちに子どもを増やし、みんなの笑顔や夢で溢れる社会をつくることで、もっと日本中を元気にしたい!

私の中でいろいろな疑問や使命感のようなものがどんどん沸き上がってきました。

こうして私は、私自身の困りごと、周りの友達の困りごと、そしてこれから子どもを産もうとする人たち、そして娘たちの将来のために、まちに多くの笑顔、日常の幸せと笑顔のつながりを増やすために―。

そのための一歩として、港区から変えていこう!そんな想いで選挙に出ることを決意したのです。

港区議会議員やなざわ亜紀

初めての選挙。悪戦苦闘!そして当選!!

とはいえ、初めての選挙は本当に大変でした。たたでさえ、右も左もわからず手当たり次第であったのですが、3月には、東日本大震災が発生―—。「選挙どころではない、しかし被災地の方々のためにも政治を止めるわけにはいかない。」相反する想いの中、0歳児を抱えての授乳しながらの選挙選。新聞で「美人すぎる議員」と紹介いただき、自分が紹介されること自体はありがたく嬉しいことだったのですが、当時はネットでの中傷を見てへこんでしまったり・・・、他、いろいろな事件が発生し、事務所が大騒動となったり・・・。様々なことがあり、立つのがやっとという日もありましたが、決意した想いや娘のこと、そして助けてくれた友人、応援してくれた周りの方、皆さんが本当に支えてくれて、当選することができました!!

区議としての仕事ができることに感謝し、全力で職務を真っ当すると心に誓い、そして、絶対に皆さんに恩返しをする!!当選した日から今まで、そしてこれからも、その想いで生きていきます!